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4.あゆが「帰還」した意味(あゆシナリオ)
みなさまご存じのとおり、あゆシナリオには、あゆの生死を巡って、大きな論争があります。有名なところで言えば、掲示板の「KANONフマンクラブ」です(詳しくは、こちら。その一、その二、その三)。最近では、「肯定派と否定派の対談 あゆ編」(その一、その二、その三)が挙げられます。
■ 祐一のジュヴナイル
はじめに私は、『Kanon』をジュヴナイルファンタジーであると定義しました。次に私は、『Kanon』の「ねじれ構造」を明らかにしました。以上の観点からすると、あゆシナリオの問題点は明らかでしょう。
それは、「主題」を祐一の「失恋」と「成長」というジュヴナイルに求めながら、「ねじれ構造」の結果、祐一の「成長」を描ききれなかったことです。
あゆシナリオもまた、祐一にとって、あゆの事故という痛ましい「現実」を受け入れて「成長」する物語です。そこで描かれる「別離」は、あゆの「死」による祐一の「失恋」です。そういう物語になるはずでした。
一月二十八日各人が実際のプレイを通して、祐一が「失恋」したことを実感していただくしかありませんが、私自身としては、あゆシナリオは、大変よく祐一の「失恋」が描けていたと思います。何より、ギャルゲーというジャンル「様式」で、主人公の「失恋」を描くという英断に、私は敬意を表します。
渡せなかったプレゼント…。
そして、それが俺の初恋だったことに気づく。
だけど、気づいたときには、もう、決して叶えられることのない思いだった。
俺は、ただ…。
赤い雪の上で、泣くことしかできなかった…。
一月三十一日祐一の「成長」を描いているシーンはこれぐらいでしょう。ところが、このシーンの表現は、現実を受け入れるという形で、祐一の「成長」が暗示されるにとどまります。積極的に祐一の「成長」を明示しているわけではありません。
俺は、あゆの小さな体を抱きしめていた。
悲しい思い出を背負って…。
自分の運命を真正面から見据えて…。
そして、最も辛い選択を選んだ少女…。
でも…。
これだけは言える。
最後のあゆは、間違いなく笑顔だった。
祐一「そうだよな…あゆ」
これが問題の、あゆ「復活」のシーンです。このシーン自体、演出、テキストの書き込みとしては申し分ありません。祐一の驚きがよく描かれています。恐らく、あゆ「復活」を心から願うプレイヤーにとっては、まさに祐一に感情移入した瞬間でしょう。祐一と同じく、プレイヤーもここで大いに驚いたはずです。
秋子「祐一さん、今朝のニュースで言っていたんですけど、知ってますか?」
世間話を始めるように、いつもの口調で秋子さんが俺に話しかける。
祐一「なんですか?」
これもいつものように、俺が問い返す。
秋子「昔、この街に立っていた大きな木のこと」
祐一「…え?」
季節が流れていた。
雪解けの水のように、ゆっくりと、ゆっくりと…
秋子「昔…その木に登って遊んでいた子供が落ちて…」
秋子「同じような事故が起きるといけないからって、切られたんですけど…」
秋子「その時に、木の上から落ちた女の子…」
凍った思い出、溶けるように…。
秋子「7年間戻らなかった意識が、今朝戻ったって…」
新しい季節が、動き出すように…。
秋子「その女の子の名前が、たしか…」
結局、「主題」のすり替えが生じた結果、祐一の「成長」を描ききれなかったのが、あゆシナリオでした。祐一のジュヴナイルを「主題」とする限りにおいては、あゆの「復活」「恋の成就」は、明らかに不要なイベントだったのです。
■ あゆのジュヴナイル
ところが一方で、あゆシナリオは“ブリュンヒルド・モチーフ”を「様式」としています。悪い魔女の呪いによって百年の眠りについたお姫様が、定められた王子さまのキスで再び目覚めるというお話です。構造主義に従えば、あゆにとって、祐一はまさに定められた王子さまです。七年前の落下事故は、悪い魔女の呪い「つむの一突き」に当たります。ここであゆシナリオは、「消失(眠り)→帰還」というもう一つの「構造」を持つことになります。それは同時に、あゆのジュヴナイルという「主題」から導かれる「構造」を有することを意味します。民俗学的には、“ブリュンヒルド・モチーフ”が、少女のジュヴナイルを意味すると解されているからです(※2)。結果、あゆのジュヴナイルにとっては、あゆの「復活」は、絶対に必要なイベントに当たります。ここに、あゆシナリオの「ねじれ構造」が見られます。
では、祐一のジュヴナイルとあゆのジュヴナイル、この二つの「主題」は、統合不可能だったのでしょうか。そうは思えません。「演出」次第で、十分統合可能だったと思います。十分統合可能と判断したからこそ、シナリオライターも、あゆシナリオに挑んだといえましょう。そして、祐一のジュヴナイルにおいて、あゆの「復活」に「意味」を持たせるために必要だった「演出」が、祐一の「挫折」故の「決意」だったのです。
私は3.において、ジュヴナイルの構成要素の一つとして「挫折」を挙げました。そうです。私にとって、あゆシナリオに足りなかったものは、まさに、「挫折」だったのです。頑張れば手が届くことが解っていて、力が及ぶ限り頑張って、それでも、力が及ばなかったときに感じる、でも、答えは用意させている、大いなる「挫折」です。
あゆシナリオに必要だったのは、あゆの消滅を素直に受け入れ、あゆの消滅を静かに見送る大人の対応(「現実受容」という「成長」)ではなく、必ず連れ帰ってみせるという、祐一の「決意」です。「現実」に立ち向かい勝利すれば、それは一つの「成長」でしょう。そして、その「決意」を導くものが、あゆを失うことに対する恐怖、すなわち、深い「挫折」だったのです。あゆが「復活」しなければ、二度と祐一が立ち直れないような深い「挫折」です。あゆを失うことに恐怖し、もうダメなのかと「挫折」してはじめて、そこに不転の「決意」が生じます。何よりもあゆシナリオに足りなかったのは「挫折」であり、そこから生まれる「決意」だったのです。そこまで来てはじめて、本来(作品的に)手に入れる必要がなかった、(祐一にとって)手に入れられるはずもない、消滅するはずだったあゆを手に入れることに価値が出てくるのです。そうしてはじめて、あゆの「復活」の中で、祐一の「成長」が描けるのです。
私には、あゆの人形捜しが意味することが解っていました。それは、祐一の封印された過去の発見(祐一のジュヴナイル)と、あゆの自分探し(あゆのジュヴナイル)です。
さらに、あゆが人形を見つけたときの結果も解っていました。それは、あゆの消滅です。目的を達した霊的存在は、ファンタジーの作法として、一時的にでも舞台から退場しなくてはならないからです。自分を見つけた時点で、自己が消えゆくことを自覚した時点で、あゆは消滅するほかに選択肢がなかったのです(ファンタジー)。それは、間接的に、祐一に再び突きつけられる「現実」でもあります(ジュヴナイル)。
結局、祐一の努力は、どう頑張ってもあゆの消滅を早める以外のなにものでもありません。祐一の努力は、見当違いも甚だしい、むなしい努力にすぎなかったのです。あゆシナリオの方向性は、祭りの後のような、空気をつかむような、すでに手遅れである状態で努力する一種のむなしさを味あわせるものだったのです。その中で、あゆの消滅という現実を受け入れ(あきらめ)、悲しみと共に少しずつ「成長」していく祐一の姿を見る、そんなジュヴナイルとなる描き方でした。それはあゆのジュヴナイルを否定する「演出」です。あゆシナリオの「演出」では、あゆは「復活」する必要がなかったのです。結果、あゆの「復活」は、祐一のジュヴナイルにとって、必要もない無駄なイベントとなりました。
あゆの復活で必要だったのは、むしろ、あゆとの絆を深めること、すなわち、あゆと一緒の時間を過ごすことです。要は、あゆと一緒に捜し物を探すという行為自体です。それこそが、あゆを助ける、(無意識的であっても)あゆを「成長」させるという祐一の「決意」と「行動」でした。先も書いたように、祐一の「決意」があってはじめて、祐一のジュヴナイルという「主題」の中であゆのジュヴナイルが生きてきます。その結果、人形を見つけてしまえば、それはそれでかまいません。大切なことは、「一緒に」探すという行為自体であって、人形を「見つける」という結果ではないのです。あゆシナリオは、「決意」という行為自体の強調がなく、いきなり人形を発見するというイベントに跳んでしまっています。あゆシナリオにおいて、人形の発見は一つの(物語上の)「達成」です。祐一は封印された過去を発見し、あゆは自分を見つけます。そこで人形を発見してしまえば、「達成」すなわち話の終焉に到るのです。「決意」なき終焉は、何よりも、あゆのジュヴナイルを不完全なものとしたのでしょう。
以上から、その後起きたあゆの復活が、『プレイヤーによっては、』「取って付けたような」=「受動的な」奇跡に見えてしまったのでしょう。むなしい「達成感」の後に待つものは、「奇跡の復活」ではなく、「物語の終焉」であるべきです。結局、これがあゆシナリオ否定派の主張だったのでしょう。少なくとも、そのように感じてしまうプレイヤーがいたこともまた、確かなことなのです。それが、あゆシナリオ否定派の実態だと思われます。
これがあゆシナリオ最大の「構造」上の問題点でした。
■ あゆシナリオ否定派を分析する
あゆは、祐一の前から消え去ります。
一月三十一日ところで、仮にここで、祐一が今まさに消滅しようとするあゆを「決意」を持って引き留めようとすれば、果たして物語はどのように展開したのでしょうか。また違う展開になったかもしれません。 しかし、結局、祐一は、あゆを引き留める前に、あゆの消滅を受け入れてしまいました。そのための、あゆの死の「演出」でした(死んだと思えるからこそ、祐一も、プレイヤーも、あゆの消滅を受け入れられます。奇跡など、起きるはずもないのですから)。この、あゆの死の「演出」が、あゆシナリオ否定派の一つの論拠となっています(PARA氏)。これが「肯定派と否定派の対談 あゆ編」(一、二、三)の主要論点でした。
溢れる涙が、頬を伝って流れ落ちる。
あゆ「ボクのこと…うぐぅ…忘…れて…」
祐一「本当に…それでいいのか?」
ふっと、体から温もりが消える。
まるで、最初から何も存在していなかったかのように…。
その場所には、誰の姿もなかった…。
リュックも…。
人形も…。
そして、最後に残った温もりさえも、冷たい風に流されていく…。
でも…。
これだけは言える。
最後のあゆは、間違いなく笑顔だった。
祐一「そうだよな…あゆ」
一月二十九日の夢この際、死の「演出」であったことが重要です。
ごとっ…。
音がした。
まるで、重たい石を地面に落とした時のような、低くて鈍い音。
ただ、それだけ。
赤い、雪の上で。
夕焼けに染まる雲のように、
真っ白だった雪が、赤に変わる…。
赤。
白黒だったはずの風景が、赤一色に染まっていく…。
あゆ「……」
祐一「一緒に…切らないと…」
あゆ「……」
祐一「…指切りに…ならない…」
あゆ「……」
祐一「…あゆ…?」
一月三十日何故、ここで祐一はあゆが死んでしまったものと勘違いしたのでしょう。生きていると信じ込むならともかく、あゆは祐一にとって初恋の人です。病院まで付き添えば、少なくともあゆの生死ぐらいは確かめられたものを、生きているのに、死んでいると勘違いするのはあまりにふがいないといえましょう。ここが、感情的にあゆシナリオの「演出」を否定する論者が出てきた由縁です。とすれば、肯定派が様々な解釈を展開したとしても、可能性を認めつつも、感情的にはどうしても祐一を許せない、というプレイヤーが出てしまうのも、致し方がないことでしょう。
胸をかきむしりたくなるような焦燥感…。
ずっと閉ざしてきた記憶の扉を開いた。
扉の向こう側にあったものは、真実だけ。
目の前の現実。
俺の好きだった人は…。
月宮あゆは…。
もう、この世には存在しない。
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